2015-05-26

【連載】編集部注目の学校 徹底レポート
芝中学校・高等学校
「いのち」について考える 公開シンポジウム 
~第3回 文化・芸術の視点から~

皆さんは、「いのち」について考え、向き合う時間をお持ちでしょうか。今日は、「いのち」について真摯に考察し、発信されている芝中学校をご紹介します。

芝中学校は明治39(1906)年に創立し、109年の伝統を持つ私立男子中学校です。校訓は「遵法自治」で、これは第三代校長である渡邊海旭(かいぎょく)先生が生徒に示されたものです。「遵法」とは心理に従うこと、「自治」とは自主・自立の精神で自分を治め自己を確立することを表しています。渡邊海旭先生は24年にわたり校長として奉職され、芝学園の発展に大変な寄与をされました。

このシンポジウムは渡邊海旭校長就任100周年を記念して行われており、第1回目は「仏教」、第2回目は「医学」の視点から、いずれも「いのち」をテーマに様々な視点から考える場を共有するために開催されました。中高パスナビでは、2015年1月24日に開催された第3回目“「文化・芸術」の視点から”の公開シンポジウムの概要をお届けします。

基調講演 「いのちを唄い、歌でいのちを繋ぐ」 庄野真代さん

渡邊海旭先生はドイツに留学されていたときに、西洋音楽をたくさん聴かれて、仏教音楽との相違・共通点などを研究されていたと伺いました。あらためて音楽は世界共通のものと感じます。

私は今年でデビュー39周年になります。最初の頃は音楽をつくること・発信することに一生懸命でしたが、現在は色々な場所に音楽を届けています。その場にいる人たちが、音楽にのせて元気や勇気や笑顔が湧き出てほしいと願っています。そして、文化・芸術を通して皆さんの中に「心の温かさ」や「いのち」の大切さが伝わると嬉しいです。

歌手・シンガーソングライター  庄野真代さん


「いのち」を慈しみ、大切に想うこと

昔から、「いのち」が軽く扱われている事件や事故などがたくさんあります。「いのち」は人類永遠のテーマかもしれません。

私がボランティア活動を始めたきっかけは、環境問題に興味をもったことからです。人類は地球上に誕生してから経済の発展のためにいろいろなことをしてきました。自然に生えていた森の木や動物を食べてきましたが、やがて森を切って畑を作り、燃料を作り、道具を作り……と、自然を少しずつ破壊するようになりました。自然には再生能力がありますが、再生に間に合わないくらい負荷がかかっていると言われており、経済発展のために犠牲になっています。なぜ人間はこんなに経済の発展を望んできたのかというところから、「いのち」が軽く扱われるということにつながっている気がします。

誰しもが“自分のものは大切”で、自分のものを守り、増やす方法を考えてきました。その過程において、ものの「いのち」や「価値」を薄くしてきたのではと感じます。「いのち」が軽く扱われることに対して何が役に立つのかというと、心の平和を導いてくれる「文化・芸術」ではないかと思います。これはお金の価値で区分けすることができない素晴らしいもので、心の中で感動するとその人の中でどんどん広がっていくものではないかと思います。

「いのち」を大切にする心を、日本人は昔から持っています。ケニア共和国元環境・天然資源省副大臣のワンガリ・マータイさんは、2004年、日本で「もったいない」という言葉を知り、素晴らしい言葉だと感じて世界に広めようと「MOTTAINAIキャンペーン」を展開しました。

「もったいない」は「勿体無い」と書きます。そもそもの本来の姿や使命、価値を「勿体」と言いますが、それが「無い」ので、「いのち」がなくなっているさまを嘆く意味です。つまり、「いのち」を粗末にすることを「もったいない」と言います。誰かと出会って、その人を忘れてしまうことを「もったいない」と思うことや、自分の中でずっと実現していない夢があれば、それを埋もれさせてしまったら「もったいない」と思います。

この世の中にある「いのち」を慈しんで大切に想うこと、心に通じている大切な「もったいない」という言葉に、日本人として誇りを感じていければ良いですね。

音楽を通じてメッセージを発信する

音楽をしている人は、「いのち」のメッセンジャーだと思います。ただ娯楽だと見える面もあるかもしれませんが、音楽の中にあるメッセージをずっと伝え続け語り継いでいます。

音楽は1930年頃から様々なジャンルに分かれていき、それぞれのジャンルでたくさんのアーティストが登場しました。例えば、「フォークソング」が誕生した頃は、こうやって生きたい、平和な国がほしい、無駄な争いはしたくない――といったメッセージが込められていました。

また、「ポップス」は大衆の娯楽だと思われがちですが、最近の「ポップス」をみると、その時代のストーリーがきちんと織り込まれていて、素晴らしい文化財だと感じます。戦争反対というものがあれば、作者が今伝えたいことをメッセージとして発信し、その時代の中で歌を通じて心を寄せることができました。

音楽以外の絵画などの芸術面でも、お金の価値で縛れない「文化・芸術」が私たちの心を豊かにしてくれるのではと思います。

音楽が社会事業となっている今、私も細々とボランティア活動をはじめて約15年になります。最初は、コンサートへ行けない人に、コンサートを配達することから始めました。

亡くなった母が生前にホスピスにいた頃に、ここにいる看護師さんや患者さんは「いのち」を深く重くまっすぐに受け止めているのだろうと感じていました。あるとき、看護師さんから、「この人たちにコンサートを聴かせてあげたいけれど、どうすればよいか」と相談があったことが活動のきっかけになりました。

「国境なき楽団」の活動―音楽を通して心をつなげるお手伝いをする―

私が運営している「国境なき楽団」の活動の一部を紹介します。NPO法人として活動して10年目になり、人の心と心をつなげていくことが大きなテーマです。

例えば、日本で不要になった楽器を寄付してもらい、ボランティアの方々がきれいにして修理をし、途上国に送る「海を渡る風」という活動があります。 楽器は「もの」です。息はしませんが、「いのち」あるものと感じます。使われていたときは、心が燃えて生き生きとしていたはずですが、使われなくなった楽器はいつまでも保管されます。持ち主がその楽器を手放して送ってくれたときから、「いのちのリレー」が始まります。その「いのち」を吹き返すためにボランティアの方がきれいにして、世界の子供たちに届けます。

スリランカは北と南で内戦をしていて、数年前に終わりましたが、民族の対立はいまだに続いています。言葉も民族も宗教も違うため、北と南が融合するのはとても大変です。そんななか、北と南の小学生が一緒にオーケストラをつくって、将来一緒に演奏をしたいという夢を抱き、「ザ・ミュージックプロジェクト」がはじまりました。私はそれに共感し、日本で楽器を集めました。

集まった楽器を送り、音楽家10人とボランティア10人でスリランカに行きました。音楽で心を通わすことができる喜びをたくさん感じてくれたのではないかと思います。日本の楽器は小学校・中学校などから寄付をしてもらいます。使わなくなった楽器が、ゴミとして処分されるのと、他の場所に行って音を奏でて「いのち」が輝くのとは、どちらが幸せなのでしょうか。寄付をしてくださる学校は本当にすてきだと思います。

平和への思いを音楽に託し、自分が住んでいる場所から平和への想いを発信しようというプロジェクトもしています。例えば、2001年の同時多発テロの翌年にニューヨークで始まった市民参加型のイベントが「September Concert」で、国境なき楽団は日本の主催者になっています。自由・平等・入場無料をキーワードに、毎年9月、世界中で開催されています。「いのち」を音楽でつないでいく意味合いがあります。

“音楽は世界の共通語”ということで、文化・芸術で格式高いもののみならず、ごく身近な音楽も人と人とをつないでくれる素敵なものだと思います。

今、世の中に社会事業家がたくさんいます。皆さんが共感できる活動に、「共感できるよ」という声を送ってほしいと思っています。「いのち」があること、生きていることが素晴らしいと感じることを、多くの人が共有できる世の中に、みんなの力でできればと思います。

幕間余興  『渡邊海旭先生と芝中学と遵法自治』 落語家 柳家さん福

柳家さん福氏から、渡邊海旭先生の人となりを落語で楽しく分かりやすく語られました。パスナビでは渡邊海旭先生の略歴とともに一部をご紹介します。

落語家 柳家さん福さん

1872(明治5年)
東京、浅草の田原町に生まれました。幼少期は勉強好きで小学校は夜学に通われましたが、家が貧しかったために浄土宗のお寺に預けられ、お坊さんになります。

1887(明治20年)
全国から選りすぐりの生徒が集まる浄土宗学東京支校に入学されました。勉強だけでなく、俳句や漢詩・漢文にも親しまれました。

1900(明治33年)
浄土宗第一期海外留学生として、仏教を研究するためにドイツ(現フランス)のストラスブルグ大学へ留学されます。ここで東京大学医学部から留学していた足立文太郎氏と親交を深めました。お金が無かったために、現地でうなぎを釣って下宿先で蒲焼にして食べていたというエピソードがあります。

1910(明治43年)
11年間の留学を経て帰国されました。このとき、足立文太郎氏と一つの約束をされました。解剖学をするにあたり、解剖する身体が無いために困っているという足立氏に対して、渡邊海旭先生は「自分の死後に解剖してよい」という覚書を交わされたそうです。

1911(明治44年)
芝中学校の校長先生に就任され、芝学園発展の基礎を築かれました。 また、校長を務める傍ら、大正大学や国士舘大学をはじめ多くの学校の設立・運営にも関わられました。

1933(明治8年)
1月26日に逝去されました。足立文太郎氏との覚書どおり、翌日に東大の医学部で解剖されたとのことです。


パネルディスカッション「いのちを描き、読み、書き記す」


「いのちを描き、詠み、書き記す」をテーマに芝中学校・芝高等学校の卒業生である、ノンフィクション作家で翻訳家の前田和男さん(芝中高卒 60回生)、作家、俳人で東京根岸西念寺住職の佐山哲郎さん(芝中高卒 61回生)、日本画家の萩原延元さん(芝中高卒 61回生)が語られました。前田さんのコーディネートにより、パネルディスカッションは始まりました。

前田:
本日は、初めに“渡邊海旭先生と俳句”について佐山さんにお話しいただきます。その後、荻原先生の日本画の師である“奥村土牛先生”の生き方から、今回のテーマ「いのちを描き、詠み、書き記す」について探っていきたいと思います。

ではまず、お二人と海旭先生との関わりなどについて教えてください。

佐山:
私にとって海旭先生は浄土宗の先輩です。私は現在、東京根岸西念寺住職のかたわら、法然上人鑽仰会の発行する機関誌「月刊浄土」の編集に携わっています。在学中は、毎日海旭先生の銅像を見て過ごしていました(笑)。

荻原:
私の父は芝の29回卒業生でした。そんな父に、小さい頃から「芝には素晴らしい校長先生(渡邊海旭先生)がいらっしゃる。お前も芝中に行きなさい」と言われて育ちました。

前田:
私は直接お会いしたことはありませんが、渡邊海旭先生のノンフィクション“紫雲の人、渡辺海旭―壼中に月を求めて”を執筆するにあたり、先生に関しての様々な資料を調べていくうちに「大変にすばらしい人だ」と思うようになりました。


渡邊海旭先生の俳句について語る前田さんと佐山さん。佐山さんが渡邊先生の俳句を読みあげる。

荻原:
今回の「いのち」というテーマは、私にとってあまりにも大きなもので、自分の描いてきた作品から語るには程遠いと感じましたので、師匠である奥村土牛先生のことをお話ししたいと思います。
まず、私と土牛先生との出会いについてお話ししましょう。

私が芝中学校で学んでいた当初、美術の先生に奥村昭先生という方がいらっしゃいました。 私は美術が好きでしたので、大学でデザインを学びたいと思い、ある時、奥村先生に相談に行きました。すると先生が、「デザインに進むのもいいね。そういえば、展覧会のチケットを持っているのだけれども、君は日本画を見たことある? うちの父が絵を描いてるから良かったら行ってみる?」と展覧会のチケットをくださいました。それは「院展(※)」のチケットでした。 せっかくいただいたので、展覧会場である上野の東京都美術館まで観に行きました。

先生のお父様である土牛先生の作品は美術館の第4室にありました。ほかの部屋に展示されている大きな作品と比べると小ぶりな作品が多かったことを覚えています。後にわかったのですが、そこは最高の作品が並ぶ部屋でした。

そこで土牛先生の絵を初めて目の当たりにしたのですが、高校生の私でもそれが最高の芸術だとわかりました。絵に引き込まれ、長い間見入ってしまいました。その後「絵について勉強したい」と思い、すぐに奥村昭先生のところに行き、その旨を伝えました。

受験までの1年半、先生に様々なご指導をいただいたおかげで、武蔵野美術大学へ入学することができました。 我々61回卒業生のうち、当時は10名が美術系の大学を受けました。東京大学、早慶大といった難関校を目指す生徒が多い中、「美術学校、いいじゃないか」といった自由な校風である芝に入学していなければ、また奥村先生に展覧会のチケットをいただいていなければ、私はまったく違う人生を歩んでいたと思います。芝の先生は本当によく生徒をみてくださる、これは大変ありがたいことだと今でも感謝しています。

※院展…日本美術院が主催する日本画の公募展



奥村土牛の絵画を例に説明する荻原さん



「土牛石田を耕す」という雅号の意味は…

土牛先生について少しご紹介しましょう。

先生は幼少の頃、大変病弱だったようです。そうした中、すべてを忘れるほど打ち込める楽しみを「絵を描くこと」に見出されました。両親から「この子には好きなことをさせよう」と育てられた中で絵の才能を開花されたようです。
その後、日本画家の梶田半古のもとに入門され、当時、門下であり塾頭を務めていらした小林古径に従事し、生涯敬愛していらっしゃいました。

先生の“土牛”という雅号の由来ですが、「土牛石田を耕す」という寒山詩の一節からお父様がつけられたそうです。
おそらく土牛先生のお父様は「土の牛、努力していきなさい。努力してもすごい畑になるとはわからないが、ともかく努力して一生懸命耕やしてみよ」という気持ちを込めてつけたのでしょう。

土牛先生が院展に初入選されたのは38歳のときでした。通常の画家ですと、院展には二十代で入選するのが普通です。土牛先生は遅咲きでしたが、雅号のとおり、粘り強く努力を続けられました。 その後、多くの作品を創作。70歳で最高傑作のひとつである「鳴門」を完成させます。

73歳のときに文化勲章を受理され、101歳で亡くなるまで絵筆を離すことはありませんでした。現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人です。


ここで、先生の絵に関してのエピソードをご紹介しましょう。

東京芝大門にある浄土宗大本山増上寺にある杉の向かいに、観音堂があります。先生は、そこの蓮池を写生し、鷺を一緒に描いたそうです。その作品を展覧会に出品し、その後は人の手に渡ったそうです。ところが先生はその鷹がどうしても気に入らなった様子で、持ち主を訪ね、頼み込んで作品を持ち帰ったそうです。その後、持ち主に作品が戻されたときには、鷹がいなくなっていたそうです。先生は絵から鷹を消してしまったのですね。納得がいかないと、どこまでも突き詰めるという先生の姿勢が表われているエピソードです。

いのちの作品「鳴門」と「動物」

ここからは、土牛先生と「いのち」についてまとめていきたいと思います。

先生が70歳の時の作品である「鳴門」。土牛先生は、奥様のご実家である徳島からの帰りに船上から渦潮を目にしました。その迫力のある姿に惹きつけられた先生は、奥様に自分の帯を掴んでもらい、身を乗り出して必死に渦潮のデッサンしたそうです。先生はまさに“いのちがけ”でこの絵を書き上げました。

また、先生は動物が大変お好きでした。作品にも多くの動物が登場しています。そしてその作品からは動物たちへの愛情が感じられます。つまり、土牛先生の絵そのものが「いのち」であるといえます。先ほどの鳴門につきましても、いのちがけで描かれていますし、動物たちの絵からは、いのちが輝かしく表現されています。


最後に土牛先生が84歳の時の言葉をご紹介しましょう。

「私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。むずかしいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。」(「牛のあゆみ」中央公論社より)

《今回、紹介された絵》
胡瓜畑 / 蓮池 / 晴日 / 耕鯉 / 聖牛 / 浄心 / 文楽人形
鳴門 / 城 / 醍醐 / 輪島の夕照 / 僧 / 吉野 / 富士宮の富士

最後に前田さんと佐山さんが、「いのち」という言葉が使われている俳句を紹介されました。

前田:
渡邊海旭先生の人生は61年でした。前半の人生30年間は出版社・博文館で下働きをするなど、生きているだけで精一杯でした。30歳を過ぎた頃からは支援者が現れ、勉強できる環境に恵まれます。先生の人生はまさに紆余曲折、つまり実際の寿命より長く生きたといえるのではないでしょうか。

私は「文化・芸術」は、人間にとって“よりよく生きる糧”だと思っています。いのちの尊さを皆さんとかみ締めながら、今回のパネルディスカッションを終えたいと思います。

文化・芸術は、よりよく生きる糧






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